よろしゅうおあがり

京都のごはん

京都で生まれて育って、食べて、見て、暮らした
だから、NZ在25年になってもウチの台所は、「京都のお婆の台所」 という看板をあげている。
看板そのものはないけれど、ちょっと昔の京都の家の台所にあった、懐かしい匂いや音や薄暗さ,すっきりきっちり整理整頓 を意識している。

京都の夏はクソ暑く、冬はクソさぶい。そんな中で、明治生まれのお婆達は夏は涼しい顔をしながら、冬はますます背筋を伸ばして、良く働き、日々のごはんを作った。
そして、ココゾ と言う時には、粋に美しく、やつすことも忘れず。
来客はもちろん、四季折々にあるお祭りごと、予測不可能な冠婚葬祭、それらはみな家でとりしきられていた。
身近にそんなお婆達を目にしてきた私は、京女 のしなやかな強さにあこがれた。                
私のベロの原点は、お婆や両親から受け継いだ京都の日々のごはんと、お料理屋さんでいただく京料理。コレは類似点もあるけれど、ある意味相反する点が多い。
お婆の日々のごはんは、ほぼ茶色。出しはけちらず、けれど出しを取っ後のだしじゃこも昆布もシイタケも機転を利かせて別のおかずとなって食べつくす。
乾物、出し昆布、鰹節、お漬けもん、味噌は、どこの家の台所にもあったもの。
四季の食材を使い、素材の味を大切にする味付け。ぬか床はビンテージ。お味噌やお漬けもんは、自家製が当たり前。普段はしまつをこころがけているけれど、お正月、お祭り、冠婚葬祭には、中途半端なことはしない。普段使いの器もしつらいと同じく、祭りごとや四季によって変えたり。お婆達は、レシピなんても言葉も知らないし、囚われもしない。ベジタリアンでもなく、マクロビアンでもなかったが、野菜を知り、丸ごと使うのは当たり前。魚も全部を食べつくす料理を知っていて、肉もどの野菜と組み合わせるとおいしいかを知っていた。おせち料理は、3が日腐らないように、工夫された。その準備たるもの、プロ並み。
調味料もこじゃれたモノ何もなく、白砂糖も敵ではなかった。玄米も雑穀もも白米も差別なく食べた。旬のものを知り尽くし、使い尽くした。たまり醤油と薄口しょうゆ、濃い口醤油の使い分けが上手だった。台所も隅から隅まで磨き上げて道具を大事にした。


日本ほど素晴らしい食文化の国はないだろう。
四季それぞれの旬のものがあり、日本列島どこにもその土地の特有な食材があり、料理法もちがう。
発酵食品の知恵やその種類も豊富である。
味噌や醤油だって、地域によって味がちがう。
そしてお箸を使って食べることは、ベロの感度が発達する。
お箸で、いろいろなお皿に盛りつけられたモノを食べるのとフォークナイフを使い、ワンプレーとで食べるのでは、ベロの発達度がちがう。
先の方では味がごっちゃにならない。ご飯とおかずを食べるにしても、ご飯はプレーンな味なので、味の喧嘩はない。後の方は、ワンプレーとで、次々と違う味を突き刺して
一つのソースを何にでも付けて口に入れれば、ベロはあほになるしかない。しかも、味の薄いものを濃いものの後に食べるとまずく感じてしまう。
昨今ワンプレートが流行っている日本。あれだけ素敵な陶器や磁器や漆器があるのに、勿体ないなあ。。。
食堂のごはんではなくて、カフェ。しかもどこへ行っても、白いお皿に真似っこ料理がちょこちょこと。
日本には日本にしかないものが仰山あるのに。。。。。その土地、その家族の中にこそ、原点はあるのに。日本人の体に適した食べ物にもっと目を向けてほしい。和食が世界遺産になったのは、プロが作るごはんっていう意味だろうか?原点は日々のごはん、おうちごはんだと、私は思う。


ウチは夫が完全無農薬で野菜を作っている。ハーブ(和洋)京野菜、和野菜もあるので、その数からいくと西洋人の畑よりも種類が多いだろう。
でも、私たちはベジタリアンではなく。多ベジ族。
売っている野菜は、基本的にはなるべく買わない。
自分たちで作りだすと、オーガニックだとか、有機だとかを名乗っていても、人それぞれ作り方ちがう。そしてそれが、商業化されてしまうと、新鮮さも?となる。オーガニックも一つのブランドにすぎず。
だからファーマーズマーケットに行くよりは、友人の畑へ。そこではお金は発生せず、ブツブツ交換。そして、入手できないものは食べない。
自然に旬のものしか体に入らず、農薬も入らない、そしてお金は減らない。
こういう思考もとっても大切だと思う。

マクロビオテックにもあまり興味はない、というより、京都のお婆の日々のご飯の方が自分には理にかなっていて、それが身についているから。
玄米も白米も雑穀ごはんもそれぞれちがうので、それぞれの楽しみ方をしている。白米が粕と書かれていても、白米が欲しい時の声を大事にする。玄米でわざわざお寿司を食べたいとも思わない。お寿司は銀シャリ。それも頻繁でないなら、粕でもいいじゃない。
玄米を毎日食べるには、今時のマクロビの本を見ているとおかずが多すぎる感がする。ウチは玄米を食べる時は、味噌汁、お漬けもん、焼き海苔くらいのものだ。
自分たちで野菜を作っていれば、皮も丸ごと食べるのは当たり前。
自分の体に日々向き合っていれば、体の冷えも体が教えてくれて、自分が何を食べればいいかもわかる。人の体はみんなちがうもの。
そして、何を食べるか以前に、体を休めること、食べないこともとても大事。サプリメント、薬なんてのは、論外。
食べずに、さっさと寝る にかぎる。
いちいちどれが陽性であり陰性であるかは、お婆の茶色が教えてくれている。頭ではなくて、知恵の伝達
日本ほど四季がはっきりしていない土地に住んでいると、そして種の力で冬でもレタスやハーブができるので、それを使うのも当たり前。身士不二も畑に行けば教えてくれる。
知識としてはおもしろいけれど、日本のちょっと昔を知っているモノからすれば、わざわざお勉強するものでもなし。
中にはとらわれ過ぎている人をみかける。ご出身は?と聞きたくなるし、その土地の食文化を知りたくなる。アメリカです、イギリスですと答えられれば、お気の毒と思うけれど、日本列島のどこかであれば、マクロビを紐解く前に地元を調べてと。
肉もその量に気をつければ、野菜が一段とおいしくなる。肉は一番気をつけているのは、その肉がどこからきているか、どうやって飼育されていたかと食べる量。だから、自分の家の羊や友たちの牧場のもの、隣人が撃ってきた野生のものは食べている。スーパーでは、野菜と同じで肉も買える状況ではなし。NZの牛は、日本のように異常なまでに過保護に育てられてない、牧草を食べているだけの本来の牛の肉はまずいので、ほとんど食べない。羊はおいしい。自飼いのものは、完全オーガニックで彼らも薬なしで育っている。弱い個体は死んでいく。必用な分だけしか命をいただかないので、無駄な殺生はしていない。食べきれない分は、皆で分ける。豚はひどい飼われ方をしているのが、全国放送で知らされて以来買ってない。鶏肉はフリーレンジのものを、時々。
マクロビは、アメリカはじめ、多肉食人(肉だけではなく)からすると、とっても新鮮な理論であり、食べやすい日本風料理であり、魅力的な東洋思想であり、肉の量を極端に減らすには一番いい方法なのかもしれない。けれど日本に生まれ育っている人であれば、日本の食文化をさぐり、家族やその土地の人が昔から食べていたモノにもっと目を向ければいいのになあ。。と。日本の食は確かに乱れている。そこを見直すには、原点に戻ればいい。まずは、料理をする時間があること、自分の体、心の調子を見ること。体重ではなくて、肌の白さではなくて、調子だ。気元はいいか、眠れるか、寝起きはいいか、お腹はぺこぺこになるか、一緒にご飯を食べる人がいて楽しい時間がもてるか。
陰陽からいわせてもらえば、ベーガンであろうが、マクロビアンであろうが、ミートイーターであろうが、生活そのものがオーガニックではない人(多忙、依存、孤独などが原因)であれば、何を食べてもバランス悪くなり、その思考も偏ってしまう。自分の周りには、ベーガン、ベジタリアン、ミートイーター、多ベジ族がいるが、どの人も孤独ではなく、夫婦仲もよく、良く笑い、よく集う。当然のようにだれも白砂糖も使わないし、勿体ないようなことはしない。資格をとったりするのに、お金が必要なんてのはもってのほかだ。それがいいものであれば、お金の力など使わずに自然に広まっていくはず。この辺りが宗教と同じにされるのだろう。キリストもブッダもお金臭くなかったはず。その後の人たちが、まるで違うものにしてしまった。

野菜に力があると出しも入らないほどだ。昆布やシイタケに頼り過ぎるのは、化学の力(顆粒出しの素、コンソメの素、スープの素)に頼っている人たちと同じだ。
料理屋は、高い御代をいただかないといけないので、多すぎる量の昆布を使ったり、全て最高級のモノを使う。
彼等は自分の畑で野菜を育てている人は少なく、高級野菜を仕入れる。今なら有機だ。有機ならなんでも、甘い、食感がいいなんて言っている。
野菜を自分で作れば、間引き菜や、ひね野菜も使い切る。同じ畑からも甘くない、食感の悪いモノだって取れる。でも、それをも使いこなすのが有機的料理人。農家の台所人だ。
幸せなことに、小さい頃から京都の一流処のご飯を食べさせてもらってきたけれど、日々のご飯にまさるものは無 と思っている。ごちそうは時々でいい。
飽きないし、栄養過多にもならない。そして、コレをきちっと食べてきた人は、おいしいモノもわかるし、まずいモノもわかる。自分の体に必要なモノもわかる、不自然なものには手も唾液も出ない。しかし今のように、日々のご飯がインスタントであったり、添加物だらけであったり、栄養過多であったり、頭でああだこうだと理論に基づいて作っていたりすれば、
体も心も気元が悪くなるだろう。

手作りのものが増えるにつけ、出どころのわからないモノはどんどん買わなくなり、食生活がスリムになってきた。
調味料も基本のモノがあれば、アレンジすれば何でもできる。
料理も足し算式は誰でもできる。引き算料理をするには、ベロの感度がよくないとできないし、それは、その国その土地その地域その家族から育まれるもの。
世の中カオス状態に入った今だからこそ、食も原点に還るのが必要 と確信している。もうすぐ お店の棚には何もない という日も来るだろうから。食だけを特化する必要もなく、医食住、全部繋がっているから

 


 

和食って?

DSC08612.JPG和食が無形文化遺産になったという。嬉しい半分、和食ってどれ?
料亭などで食す究極のおいしさと美しさを追求した和食なのだろうか、それとも市井の人が食べる日々ごはんのことだろうか、流行りのマクロビのことなのだろうか。


私としては、今の日本の食ほど、豊富な食材、いろいろな味つけ、調理法がある国はないと思う。人も食に対して興味深々で、各地の食文化も素晴らしい。全てにおいて、ないものはないのが日本の食だ。だからこそあれもこれもで、、個性がなくなっているようにしか見えないのだけれど。
京町屋に住む従弟宅にやってくるベロの洗練された外人さんたちは、一流所の料亭では、勿論、満足は感じているが、彼の家で出される茶色のおかずをこよなく愛している。炭水化物は後にとか、白米より玄米、古代米、雑穀飯なんて言ってはいなくて、白いご飯とおかずをバランス良く食べている。おかずは、どれもこれも昔から京都の家のごはんだ。

よそいきの京料理と普段の京都のごはんはちがう。京都のおばんざい なんてのは、母でもなじみがない言葉だし、明治生まれの祖母からも聞いたことがない。京都人は(おかず)としか表現しない。マクロビアンが好んで食べるものは、そのほとんどがいつも食卓にのっていたおかず。ただし、白い大皿でおしゃれっぽく、ちょこちょこ盛ってあるのではなくて、いつものお鉢にそれぞれ。定番すぎて、人気がなく、いつも残り続ける。しかし京都人は始末屋なので、ひじきの炊いたんをどんどん変身させていく術は知っているので、最後は食べつくされる。

陰陽なんて難しく考えず、その時の季節の旬のものを食べただけ。冬のトマトも、夏の白菜もなかったから。体が冷える人は冷えるし、暑がりは冬でも暑い。そのことをこと細かく追及もせず。胃がおかしくなるほど、生姜を食さない。反対にふわふわのパンや添加物だらけのものはなかった。

悪役の砂糖の存在も同じく。京都の高級料亭だって、砂糖は使う。何でもかんでもみりんを使っているわけもなく。おせち料理や棒鱈の炊いたんにはお砂糖は仰山入ってます。一時どこの家にもあった味の素も今は外国でも嫌われモノ。けれど料理本や人気料理家でさえ、顆粒チキンスープの素を入れたりしている。ここには仰山あの嫌われモノが別名で入っているのに。化学物質で作り上げたスープの素だ。

昆布やカツオの味が分かる人は少ない。濃い味に慣れ切った人には物足りないもの。明らかに顆粒だしの素ともちがう。
料亭で出されると、「お出しの味が効いている」というコメント。当たり前やん、と思う。そのおいしさは塩のおいしさでもあるし、金額に見合うだけの量の鰹節と昆布ををほりこんでいるからだ。家のごはんでは、そんな贅沢はできないし、必要なし。

素材の味を引き出すことも大事だし、旬を味わうことも大事、精製されたものはよくないのは当然。けれど、日々のごはんは美味し

すぎてはいけない こともとっても大事だと思う。ここで言う美味いというのは、足し算料理や贅沢素材のことも含まれる。まずいもの

は食べたくないけれど、昔のヒジキみたいに「またこれかいな、きょうはええわ」と、どぼ漬けとお茶漬けで済ます日もあっていい。時々は、食べないことをすると、ホントのおいしさが分かる。

現代人のベロ(舌)の味覚能力は、麻痺しておバカになっている。大量の添加物、究極の食材、究極の味付け。美味しすぎるものばかりを食べ続けている。あんまりおいしないもの が存在しないから。かといって何かに取りつかれたように、油や動物性のものを嫌い、玄米をむさぼり食べている人と話しているとこれもまた不自然な気がする。何事もバランスが大事だろうに。

1か月間通常の社会生活をしながら断食した人が言っている。断食は出す喜びを得られる。食べても食べなくてもけっこう楽しく生きていけると実感。感覚が鋭敏になるので、繊細な香りや味を識別できるとのこと。感覚をもとに戻すには、一度ゼロに戻すのがいいだろう。戻すことなくして、美味しさを語ったり、正食をしたりすると、不自然で続かないと思うのだけど。

さて、ウチ今夜のごはんんは無形文化遺産に匹敵するだろうか。3年漬けの糠床を見てにんまり。

そして食だけを特価するのも、バランスが悪い。生きるということにおいては、食はとても大事だけれど、あくまでもそれは、一部としてとらえ、全ては同一円上にあると考えている。

 

加筆

反原発派でもあるので、当然東京オリンピック開催にも大反対である。なので、その手の人たちの集団でもあるユネスコが今回和食というあいまいな名前で、無形文化財としたのは、かなりかんぐってしまう。食べて応援するなんてのは、もってのほか。

そして、食の乱れが起きている日本では、国民はどう判断するのだろうか。日々の家のごはんが孤食だったり、添加物だらけだったり、出来あいものばかりだったり、外食だらけだったりしていれば、名前負けしてしまう。

世界と日本の台所にはギャップがある。

 

圧巻アップルケーキ

IMG_5360.jpg材料 

薄力粉 150グラム、お好みのナッツ適量、お好みの油100cc、卵2個、お好みのお砂糖100g~150グラム、卵2個

シナモンパウダー小さじ1/2.ベーキングソーダー小さじ1、リンゴお好きな量をたっぷり

 

以下の順に混ぜていって下さい

卵―油―砂糖―シナモンーBS-ふるった粉―リンゴ―ナッツ類

180度の温度で、串を刺して何も付着しなければできあがり

今日はドライクランベリーとへーゼルナッツがあったので入れました。

 

ちなみにこれは、私の一番よく作るニンジンケーキのレシピです。ただただ混ぜて焼くので、お砂糖の量とかニンジンの量も適当です。ち私は、お砂糖はきび砂糖を100グラム、ナッツは胡桃を良く使いますが酸化しやすいので、是非新しいものを。時間がある時は炒ったりしますが、面倒な時はパス。油はグレープシーズオイルをお菓子には使っています。

ウチの今年のリンゴはモチュエカで一番立派なオーガニックリンゴだと思っています。あのシローさんのところものでも、比較にならないほど、でかくてきれいでおいしいです。なので、孫の顔ほどあるものを4個使ったのですが、尋常な量ではなかったですが、これが大正解!型は何でもいいですよ。ただリンゴの量が多いのでひっくり返してクーラーラックにのせた時に角が崩れたので再度戻しました。パウンド型が簡単だと思いますが、こういうのも家にあるものでいいです。

お家ケーキは、思った時にささっと作れて、後片付けもラクチンなのに限ります。手軽だから、作る回数も多くなるし、自分流にアレンジもできるので、上手になります。食べすぎないようにするには、焼きたてを半分、すぐにお隣に持って行くことにしています。

 

ちまちま夏仕事

IMG_5189.jpg朝はすっかり秋色空だし、肌寒い。半袖ではと長袖を捜しつつ、いや待てよと、なかなか朝の着替えが決まらない。そろそろ季節も交代だろうか?が、昼間になると、ほれみたことか。空は青さを増し、雲も押しのけ、カンカンと照りつける太陽は、「ま~だだよ」と朝は隠れ潜んでいた夏の暑さが現れる。最後の頑張りのようでもあるけれど、まだいてくれたんだあ、と嬉しくもある。

庭の隣の「酔いどれスポット」 では、外ご飯をしたり、BBQをしたり、お茶をしたりもする。そして、花の種取り、豆をさやから出したりの作業台でもある。カラッと乾いた台所のふきんもココでたたむ。

今日は夏でも元気いっぱいの蕗畑から、佃煮を作る。ふきは筋取りがめんどうだけれど、それもやっぱり「酔いどれスポット」でやる。退屈してくると、手を休め遠くをみて、蝉の声を聞き、また筋とり。羊がリンゴをせびるように泣いている。ハイジも昼寝から覚めたのかまた草を食べている。

外に生活空間があるというのは、とても豊かだ。そしてそれが、繋がっているってのがいい。わざわざ感がないから。別荘を持った人は、何が何でもがんばって、休みとあらば出かける。がそれが、普段の中にあれば、頑張りは必要なし。洗濯モノをたたむのを、外でするのもいいもんだし、本も読む。

酔いどれるには、お酒だけではなくて、日常の生活でも。

 

 

 

 

アフターヨガ

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朝ヨガに行く。ちょっと肌寒いので、長袖も必要みたい。ヨガ後は、みんなで持ち寄りランチなので、畑へハーブやルッコラ、レタスを摘みに行く。みんなは私がきっとご飯モノを作ってくると思っているだろうが、そうはいかぬ。トマト消費のために、トマトサラダなのだ!トマトは湯むきしてあるのを昨日から冷やしてある。ミニトマトは、黄色、緑、赤。サニーレタスやルッコラの緑。うーーむ、これだけでは淋しいから、コリアンダーとオレガノと花を摘む。ドレッシングは、玉ねぎをすりおろしたものを入れたフレンチドレッシング。ハーブは、タイバジル、バジル、イタリアンパセリ。これは飾りではなく、しっかり食べたい。

1時間半たっぷり体をほぐした後は、口も良く動く。持ち寄ったランチはどれもおいしくて、軽い。話題も豊富で、腹式呼吸での笑いが絶えない。オランダ人、スコットランド人、イギリス人、オランダ人、NZ人、日本人。女が集まるところには国境はなし。ヘレンが持って来てくれたタスマニア(オーストラリア)のチョコレートのおいしかったこと!彼女は、最年長で70歳。5月には1カ月半、フランス、ギリシャ、スイスの旅へ。あの年齢であっても、ツアーには入らず、夫婦二人で車も運転するという。ナーラ夫婦は、シアトルへバイクのツーリング。みんな、旅の仕方もたくましいや。

今夜のごはん

白身魚のフライ、マカロニサラダ、トマト、ラデイッシュ、どぼ漬け、大根おろし、ごはん。

揚げものを食べるときは必ず大根おろしをともにすることにしている。

 

あっちとこっち

DSC02962a.jpgまだオアマル住んでいたある朝のこと。起きると、庭のあちこちに、牛たちが7頭。牛は見慣れているが、それはフェンスの向こう。地続きであっても、違う世界に生きていることが、暗黙のルールのはず。それが、同じ空間、しかもすぐそこに共存してしまっている。ちょうどお客さんも宿泊されていた朝だから、朝食の用意もあるし、さっさとなんとかしなければ。と同時に、1500本のラベンダーをなぎ倒さないで欲しい、大きくなってきた木を切り倒さないでほしい、大きな窓ガラスを割らないで欲しい、とあれもこれも出てくる出てくる。牛からすれば、フェンスの反対側の世界は、牧草とは違う匂いがする花や木がある場所としか認識してないだろうに。どの子もおびえもせず、鳴きもせず、のそのそと遊んでいるように見える。

仔馬がフェンスを飛び越え朝も早くから家の周りを駆け足をし、フェンスの中にいる母馬が泣きわめく声で起こされた日もあった。

隣の山羊もふらふらと遊びに来た。

少し大きくなったラムたちが、フェンスをくぐりぬけて、花を食べている。

田舎暮らしというのは、あの細い針金のフェンスのおかげで人間が安全に人間のテリトリーの中で生活している面白いところでもある。けれど彼らは多少おいたはするけれど、人間のように殺し合いまではしない。

人間界にはフェンスはない。けれど人間はこのところ多種化してきたようで、いろいろなのが共存しているからモラルもくずれてきているし、価値観もかなりずれてきているようだ。高いフェンスに入る人もいるが、フェンスの中でも居心地がよく安全だとは言えない。国という大きなフェンスの中には、あまりにもウソとデタラメが多いから。

1週間後には、3.11のセレモニーが、国内外で行われるだろうけれど、もう津波や地震は消えさっている。が、原発はまだあるどころか、何の解決もないまま怪物化している。牛や馬は家畜化されていても、まだ動物の本能は残っている。だから自分の身に危険が迫れば、フェンスを飛び越えて逃げる。人間はどうだろう?

今夜のごはん

野菜と豚肉鍋

白菜のない季節はアイスバーグレタスで鍋を楽しむ。しゃきしゃきとした触感と甘さがおいしい。煮すぎないようにしゃぶしゃぶ程度がたべごろ。葉大根やルッコラもとってもおいしい。牛のごとく緑を食べた。

 

 

 

 

緑も。。。いろいろ

IMG_1977.jpg裏山を登っていくと、我が家がちんまりと見える。

道路の反対側には広大なファーム、パラテイホがある。羊が何万匹も飼われている緑のじゅうたんが広がっている。が、これを自然とは呼ばない。ここにはもともと木が植わっていたのを伐採して牧草の種をまき、緑のじゅうたんを敷いたのだ。そうやって、原種の土地を先人たちは開発してきた。そして、今は収益があがるように、じゅうたんには除草剤がまかれている。羊の毛はウールという自然のものだけれど、彼らの生活するじゅうたんは、アクリルやナイロンと同じで、フェイクである。

松林も同じく。原種の森を切り倒し、すぐに大きくなりお金になる松を植えた。果樹園も ぶどう畑も。最たるものは、ゴルフ場。どこもかしこも、たっぷりと除草剤がぶち込まれていて、化学の力で土を肥やしている。勿論オーガニックのワインを作る人達のブドウ園は、化学の力ではなく、人的労働力がしこたま入っている。ウチの近くにも小さな家族経営のものがある。

そんないろいろな緑に囲まれた我が家と隣人たちは、コツコツと地道にホントの緑にもどしている。山の上の隣人は、ネイテイブや広葉樹しか植えない。すぐ隣のジャステインやカミールは馬を飼っているが、抗生物質は飲まさない。だから彼らのウンチは土地を汚さない。馬が好まない草には、オーガニックのスプレーをする。そして、ケミカルなものやスーパーのお肉などは買いもしない。ジヤステインが狩りで仕留めてくる野生の鹿、野豚、ウチの羊しか食べない。鶏に関しては、山の上がダック、隣人が鶏を飼っていて、ペットではなく、食用。

ウチは、畑で野菜を作っているが、化学の力はゼロ。ヨモギや草などで作る液肥、竹酢、竹炭、落ち葉、毛刈りした羊の毛、落ちたリンゴ、EM,牧草、生ごみなどで作った肥料で野菜をつくること、すなわち土地にも栄養を与えている。リンゴ畑は、選定はするものの、放置。馬が放してあるので、土壌はいい。リンゴが病気になっても、自己治癒力に任せておけば来年は治っている。

人は緑があれば、自然色と思うだろうが、そこで暮らせば、緑にもいろいろ とわかる。フェイクの緑は、人間にとっては毒であり、地球生うう 

命体に対しても良くない。

 

今夜のごはん

すマカロニグラタン、いろいろサラダ、こかぶとシイタケのエスニック風スープ

グラタンには何も、具材は入らない。

蜘蛛の巣

IMG_3084.jpg蜘蛛は風に乗って飛んで来ることを知ったのは、大人になってから。だから、防ぎようがない。別に怖くもないし、家の中で見つければ生きたまま外へ行っていただく。外壁には蜘蛛の巣だらけ。縦糸だか横糸だか忘れたが、どちらかが粘液質の糸なので、簡単には払えない。箒の先にもべっちょりとへばりつくので、それを手でこそげ取らないといけない。面倒な作業でもある。

蜘蛛の巣が似合う家でもあっていいなあ。。。とも。明らかにトイレや台所、ベッド回りは嫌だけれど、外壁や古ぼけた椅子の下なんかは、似合っているような気がして。

畑で見る蜘蛛の巣は素晴らしいアートでもある。朝露を受けてきらきらしているのには、見惚れてしまう。鳥の巣といい、生き物の家ってのは、自分たちでこしらえ、身の丈にあ多々物ばかり。なるべくなら共存して学ばないとなああ。

 

今夜のごはん

エビ入り弱アラビアータ、しし唐とシイタケのバター焼き、日本酒。

アラビアータには、自家製のトマトソースにチリを足して。コテコテにしたくないので、弱アラビアータがいい。

 

 

3月にモノ申す

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今年の夏は、人間にとっては素敵すぎる。雨が数粒しか降らず、来る日も来る日も晴れ、晴天、すこーーん!

蝉の声を聞きながら、日焼けした体を横にすればすーすーと、昼寝もし放題。家の中は涼しく汗もすぐにひく。

家からすぐそこいらには、森や山、川、海があるので、遊びに行きたくなれば、何の苦もなく出かけられる。どこへ行っても貸切なのも最高。

夏休みの宿題を放りだした小学生のなみに、好き放題である。ときどき仕事するけれど、苦にならず。

感想文は書かなくても良いので、本も次から次へとどっさり読めた。徹夜までした。

畑のスイカも堪能した。甘くて、みずみずしく。

草引きに精を出しすぎなければ、肩の痛みもほとんどなくなった。まだしっかりと機能は回復していない けれど、痛みがないだけでもありがたきしあわせ。

ところが、畑と花壇はえらいことになっている。雨なしなんで、その水やりだけでも長時間。スプリンクラーは使わず、手動。花壇の土はガチガチになっている。が昼間は暑いので、水やりは午後8時からたっぷり1時間以上はかかる。それは手をぬかなかったら、1本だけ水嫌い なのを忘れていて枯れた。

そして、私のように手を抜かずに暑かろうが朝から5時まできちんと外仕事に励む夫の畑からは、尋常ではない量のトマトを初め夏t野菜がキッチンへ届く。隣人や友人に分けても、次の日はそれを知っていたかのように、倍返し。1日中トマトソース、ジャム、を作る。がお砂糖を入れることに抵抗があるので、ドライトマトと、トマトソース作りに専念。ミキサーもこれ以上使ったことがないほど、モーターは活動。ドライトマトはオーブンで作るので、家中トマト香りで。トマトに占領されている。

これにハーブの乾燥、青シソの冷凍保存が追っかけてくる。おまけに大根が干してあって、沢庵を漬けるという。

遊び呆けた夏からそろそろシャッキリする時期になりつつある。

再書

肩の調子がこの夏の暑さでもむほぐされたようで、ずいぶん調子がいい。

少しの間なのに、書くことから離れていたら、FBの短いメントでさえ、気持ちと交差すること多し。そして、長年続けてきたことの数少ないことのひとつでもあるので、再書することにした。

これを機に今まで夫が撮りためていた写真を利用して、日々の暮らしとともしお知らせしていこうと。

では、もう一度はじまり、はじまり。

日々のご飯の写真は、FBで紹介することが多くなるので、そちらものぞいてやってくださいませ。